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印旛郡の郷配置図(平川氏)
【香取郡と印旛郡の分離】
大化の改新(645年)で古墳時代が終わり律令時代になると、国造が支配する「クニ」はなくなり「郡」制が敷かれた(最初は評として成立し、それが郡になった)。すると、印波のクニは、香取郡、埴生郡、印旛郡に分割された。
その中で香取郡は長沼湾を境に東側に展開したが、印波のクニからはみ出し、海上国造が支配していた地域にまでに大きく範囲を広げた。勢力を広げたということであろうか。
前述の竜角寺の文字瓦に「加刀利」の地名が記載されていた。香取評が成立したのが649年といわれているので、そこが瓦を寄贈したのであれば竜角寺はそれ以降に建造されたことになる。ただし、評が成立する前から「カトリ」の集団が長沼湾の東側にいたという説もある。
印旛郡は、今の成田ニュータウンから八千代市あたりまでの範囲であり、その中でも人が多く住んでいたのは、印旛沼東岸の限られた地域だった。それまでの印波のクニは長沼湾の豊かな経済力が基盤だったが、それがなくなり、印旛郡は新たな経済基盤をつくらなくてはならなかった。
また、埴生郡と香取郡は仲が良く協力関係にあったので、印旛郡はそれらの勢力に対抗するためにも経済の拡大は急務であった。
そこで目をつけたのは、開発が遅れていた印旛沼西部の地方であった。そこを開拓し、入植して、多くの「郷」をつくった。挿絵に描かれた郷の多くは、郡制後に開発された。
印旛郡の文化的特徴は墨書土器(裏に墨で文字が書かれた土器)の出土の多さである。
―印旛郡については歴史民俗博物館教授平川南氏・平成20年成田市史講座を参考にした―
(成田市玉造 田村 桓夫)
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