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16

5月

2010

歴史に埋もれた長沼文化

創建当時の竜角寺(現地看板) 創建当時の竜角寺(現地看板)

【埴生郡の誕生】
 律令時代になって誕生した埴生郡は、西は今の栄町安食から東は長沼まで、南は成田ニュータウンの玉造地区の一部から寺台あたりまでの狭い範囲だった。


 狭い郡だから経済的にも小郡かというと、それは当たっていない。


 当時の村の単位「郷」は、その広さではなく、そこで生活する50戸を目安に構成した。当時の1戸は今でいう一族のようなもので、人数は20人から100人くらいだったそうだ。そのいくつかの郷を管理するために郡があったので、一概にはいえないが、面積が小さい郡は人口密度が高く、経済的に豊かだったという面もあった。


 埴生郡の経済の中心は長沼地方であったようだ。


 郡の誕生と同時期に創建され埴生郡の精神的なよりどころであった竜角寺が、当時長沼側から船で往来しやすい場所に建てられていることもその根拠の一つとされている。
 その時代も長沼地方は、豊かな海産物と海上交通の恩恵を受け、古代の東海道の往来も盛んで、大いににぎわったことだろう。


 竜角寺は今は小さな寺になってしまったが、古代から途絶えることなく今も現役なのがすごいところだ。


 埴生郡の政治の中心は竜角寺あたりだった。


 風土記の丘を縦断する細い道路が安食の方に抜け安食バイパスと交差するあたりで、近年、郡家(別名郡衙)と呼ばれる律令時代の郡の役所跡が発見された。


 そこから風土記の丘―成田西陵高校―成田ニュータウンを通る道は当時のメーンストリートだった。その道の両側には多くの古墳が並んでいる。古墳時代から続く街道だったようだ。


 その道は今もほぼ同じルートで残っており、「白鳳の道」と呼ばれている。
 (成田市玉造 田村 桓夫)