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23

5月

2010

歴史に埋もれた長沼文化

玉作り遺跡と玉造小学校前バス停 玉作り遺跡と玉造小学校前バス停

【郷の誕生】
 律令制によって誕生した埴生郡は、いくつかの郷からなりたっていた。当時の記録はないが、後の平安時代(930年代)に書かれた「和名抄」を見ると、埴生郡に「麻生」「酢取」「玉作」「山方」の四つの郷が記録されている。


 成田市史に収集されている史料をまとめると、それぞれの郷の範囲は次のように推定される。


◆麻生郷は、栄町安食から成田市の境までで、地名が示すように麻布の産地だったようだ。
◆酢取郷(羽鳥郷の誤記か)は、南・北羽鳥、長沼、竜台、田川(茨城県河内町)、安西の地域となり、地名は服部(機織りの集団)が転じたものとしている。
◆玉作郷は、松崎、大竹、上・下福田、宝田の全域と、玉造の北半分で、文字通り、古墳時代に玉作りが行われていたので付いた地名であろう。
 成田ニュータウンの玉作り遺跡がある場所の旧字名は「八代字花内」である。八代であれば印旛郡ということになるが、花内は「埴生の内」が変化したもので、もとは埴生郡に属していたことを表しているのではないかと成田市史は書いている。したがって、そのあたりが境界線となる。
◆「山方郷は、山口、郷部、土屋、成田市街地、寺台となる。
 海に突き出た半島の埴生郡の中心から見て、山方郷は山の方角にあった。そこには古くから中央政府の機関「山方駅」が置かれ、古代の東海道の要衝だった。
 山口の地名は山方郷の入り口の意味からきている。
 寺台の向こう側にある「遠山」の地名は「遠山方郷」からきており、山方郷の向こうという意味だそうだ。「遠山も山方郷の一部」と記す書もあるが、間違いであろう。
 (成田市玉造 田村 桓夫)