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30

5月

2010

歴史に埋もれた長沼文化

坂上田村麻呂の陣跡と伝わる皇産霊神社(江弁須) 坂上田村麻呂の陣跡と伝わる皇産霊神社(江弁須)

【平安時代の長沼地方】
 平安時代になると奥鬼怒湾は「香取海」と呼ばれるようになった。この時代も長沼地方はこの海から海上交通と漁業の恩恵を受けただろう。しかし東海道は、奈良時代に開発された東京湾北岸ルートに次第に主役を奪われ、805年に山方駅と荒海駅が廃止となった。


 それでも、平安時代初期の坂上田村麻呂も、前九年の役の源頼義もこの地を経由して奥州征伐に向かった。成田は古墳時代から伝統的に東国遠征の拠点だった。
 田村麻呂は成田の江弁須に後方支援の陣を敷き、その地名は奥州の捕虜(夷)を収容したことで付いた。宗吾霊堂で知られる東勝寺は、田村麻呂が戦没者供養のために創建した。(小倉博著『成田の史跡散歩』)


 935~40年に平将門の乱が起こり、このあたりもその舞台となった。
 「第二次大戦後、西大須賀で、将門の側室ききょうの遺品らしいものが発見された」と何かで読んだことがある。また、近くの寺にそれがあると地元の人から聞いた。真偽は不明であるが、このあたりは、将門を調伏した成田山が近くにありながら昔から将門の支持者が多く、今でも新しい伝説が生まれている。


 1051年、前九年の役で頼義は押畑に陣を敷き、その地名は「白旗を押し立てた」ので付いたそうだ。


 11世紀には平忠常の反乱があり、このあたりも巻き込まれて田畑は荒れ果てた。乱が終結して復興と開発が大規模に進められると開発者の権力が増大し、それが従来の郡や郷の秩序を混乱させ、その役割を失わせた。埴生郡は埴生庄に変わり、長沼湾の東側は大須賀郷となった。


 埴生庄を開発して権力を握ったのは、反乱の張本人平忠常の曾孫、埴生常門であった。
(成田市玉造 田村 桓夫)