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06

6月

2010

歴史に埋もれた長沼文化

伝「一の陣屋跡」 伝「一の陣屋跡」

【鎌倉時代の長沼地方】
 (これからは、その歴史に触れた私の体験を交えながら話を進めます)

 

 仙台出身の人で「新妻」を姓に持つ人がいたので、「あなたの先祖は成田の新妻(にっつま)から出たのですよ」と教えても信用してもらえなかった。
 鎌倉時代、奥州征伐で功をあげた千葉氏は頼朝から奥州の領地を与えられ、一族の大須賀氏も広大な領地を得た。
 大須賀氏の重臣新妻氏は長沼湾の新妻を治めていたが、いつの時代にか(小倉説では室町時代)奥州の大須賀領に土着し、戦国の時代も切り抜け、江戸時代には仙台藩の家老となった。(小倉博氏作成資料参照)
 新妻地区にある「一の陣屋」と呼ばれる城跡は、新妻氏の居城跡ではないかといわれている。
 
 鎌倉時代初期の長沼地方は上総の介広常が領していたが、頼朝から謀反の疑いをかけられて広常が失脚すると、こんどは千葉常胤に与えられた。それからは、小田原で秀吉に滅ぼされるまでの400年間を千葉一族が治めることになる。
 埴生庄は豊かだったので、時どきの有力者による争奪戦が絶えなかった。
 千葉常胤の曾孫の時常は埴生庄を治めていたので埴生の姓を名乗るまでになっていたのに、兄秀胤にそれを横領され、兄弟で激しく対立した。
 1247年、宝治合戦(三浦泰村の乱)で三浦氏が滅ぼされると、泰村の妹を妻にしていた兄秀胤も鎌倉幕府から攻められた。すると、あれだけ争っていたにも関わらず弟時常が加勢に駆け付け、幕府軍と戦って、ともに滅んだ。
 幕府の公式記録「吾妻鏡」は、幕府への敵対行動であるにも関わらずこれを〝勇者の美談〟と称賛した。
(成田市玉造 田村 桓夫)