千葉貞胤顕彰碑(超林寺)
【海洋王国の野望】
千葉秀胤・時常兄弟が滅んだ後の埴生庄は名門足利氏の所領となったが、1251年、足利泰氏は埴生庄で突然出家する。足利氏の勢力拡大を警戒する北条氏を恐れての行動だった。
領有権が放棄された埴生庄は北条氏に没収され、一門の金沢実時に与えられた。
実時と言えば「金沢文庫」を創設した好学の士として有名だが、最近、海洋王国建設の野望を抱いていたとするもう一つの顔が注目され始めた。
実時は、港湾の発達した六浦(横浜市金沢区)を支配して東京湾の「海民」(海を生活の基盤とする人々)の支配をもくろみ、さらに埴生庄を領有した後は、印旛沼周辺の荘園を次々と掌中におさめ、香取海の支配を目指した。
長沼湾東岸の大須賀郷は、鎌倉時代初期に千葉常胤の4男胤信が領有して大須賀の姓を名乗り、その子孫に代々受け継がれた。
大須賀氏は大慈恩寺を通じて金沢氏と密接な関係となり、自らも香取海に面した滑川、猿山、小見川などの領地を獲得して海洋王国建設の一翼を担った。
1285年、金沢実時の子顕時が失脚して海洋王国の夢は破れ、埴生庄の支配はまたもや転々とした。
南北朝期の1335年、千葉氏一族が両軍に分かれて激突し、成田も同族が争う戦乱にまきこまれた。
翌年、南朝側の千葉貞胤の軍が越前の国(福井県)で行軍中吹雪に遭い、敵陣の真ん中に迷い出た。貞胤が自分の首と引き換えに配下の助命を嘆願すると、敵将は首を取らずに全員を解放した。恩義を感じた貞胤が北朝側に付いたことで、千葉氏どうしの戦乱は終結し、成田に平和が戻った。
当時その行為を称えて建てた石碑が、成田市台方の超林寺に現存している。
(成田市玉造 田村 桓夫)