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27

6月

2010

歴史に埋もれた長沼文化

助崎城址(成田市名古屋) 助崎城址(成田市名古屋)

【激戦 竜台合戦②】
●開戦
 竜台合戦は長沼地方の勢力を全滅させた悲惨ないくさだった。伊藤修一著「私たちの豊住」に「東国闘戦見聞私記」を引用して詳しく書かれている。東国私記は常陸国の浪人が書いた実際のいくさを参考にした物語で、歴史書とまでは言えないが、ほかに竜台合戦を書いた史料がないので数回に分けて紹介する。
 
 1581年、今の成田市北部にあたる地方は、千葉氏と北条氏の勢力がしのぎを削る最前線だった。
 千葉方である滑河菊水城の小田左京大夫政治は、北条方である助崎城の内田信濃守を攻めた。3カ月に及ぶ攻防戦で旗色が悪くなった信濃守は、このあたりの北条方の根拠地、牛久の足高城主岡見中務に援軍を頼んだ。
 知らせを聞いた岡見中務は「坂東の諸葛孔明」と称えられた名将栗林義長を呼び、出陣を命じた。
 栗林義長は四方の味方に参陣を乞う手紙を出し、自らは2千騎の軍を引いて出陣し、その日のうちに布川の城に入った。そこで1日待つと続々と援軍が集結し、その翌日、総勢7千騎で助崎城を目指した。
 一方、助崎城を取り囲んでいたのは、菊水城小田左京大夫、長沼城長沼五郎(兄)・長沼新八(弟)、広ノ台城羽鳥新助(兄)、陀々見城羽鳥二郎(弟)、荒海城荒海重綱、大竹城大竹次郎の総勢4千余騎。
 千葉勢は義長出陣の知らせを受けて軍議を開き、このままでは挟み撃ちになるので竜台に移動して迎え討とうということになった。
 助崎城の抑えとして200騎を残し、本隊2千騎は竜台の砦に、先陣の長沼五郎千騎と大竹次郎千騎は安食台(栄中学校あたり)に陣取った。     つづく
 (成田市玉造 田村 桓夫)