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01

8月

2010

歴史に埋もれた長沼文化

仁王と海保三吉(成田山霊光館) 仁王と海保三吉(成田山霊光館)

【豪傑 海保三吉】
 小田原の敗戦で、長沼地方の武将は皆千葉氏に従い北条方に付いたので滅び、城も取りつぶされた。しかしその中で、寺台城主海保英氏の子三吉だけは徳川に仕え、寺台に戻って再興を成し遂げたが、喧嘩がもとで切腹を命じられ、再び廃絶となった。そのいきさつは、小川国彦著「成田ゆかりの人物伝」に詳しいので、要約する。
 海保氏は、1566年に自分の領地を寄進して現在地に成田山新勝寺を誘致したほどの篤信家であった。
 1590年、小田原の敗戦で寺台の領地と城が没収された。子の三吉は、もともと「巨竹を握りつぶすほどの腕力」といわれた名の知れた豪傑だったので、徳川方への召抱えがかない、300石の領地をもらって寺台城址に屋敷を建てた。
 三吉の腕力は成田山の仁王から授けられたとの伝説があり、仁王と相撲を取る絵も残っている。
 関ヶ原の戦いでは徳川秀忠のもとで上田城の真田昌幸を攻め、城下に斬り込み、「真田攻め七槍のほまれ」の一人として名声をあげた。
 徳川家康が京都伏見城に入るとその警護に付いたが、京都ではたびたび酒の勢いで喧嘩をして町衆や武士を殺してしまった。
 ある時、力自慢の侍に相撲の試合を申し込まれ、試合で相手を踏み殺した。
 こうした粗暴が幕府にも聞こえて放っておけず、老中で佐倉藩主の土井利勝は、三吉が寺台に帰還するのを待って切腹を命じた。
 1617年、海保三吉は、48歳の生涯を切腹で閉じた。徳川家康の死んだ翌年のことであった。
 切腹の見届け人は、将軍の剣術指南役であり、三吉とは真田攻め以来の盟友の小野治郎右衛門であった。そして、寺台の領地は彼が継承した。
(成田市玉造 田村 桓夫)