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05

9月

2010

歴史に埋もれた長沼文化

小野治郎右衛門父子の墓 小野治郎右衛門父子の墓

【一刀流 小野治郎右衛門】
 寺台の海保三吉が切腹した後、その領地を将軍家剣術指南小野治郎右衛門忠明が継承したことは前回書いたが、実は、二人の数代前の先祖は同郷で、ともに里見氏の家臣だったそうだ。
 そんなことがあったからか二人は気が合い、徳川秀忠のもとで武功を競い合った。関ヶ原の戦いの真田攻めではともに敵陣に切り込み、名を馳せた。
 また、二人とも世渡りが下手だった。三吉は争い事がもとで切腹を命ぜられたが、忠明も何度か不遇なめにあった。
 関ヶ原のときの真田攻めでは、忠明は大きな手柄をたてたにもかかわらず逆に軍律違反をとがめられ、真田信幸に預けられて蟄居させられた。
 大阪夏の陣では、同僚の悪口を言ったことで味方の旗本同士で争いが起こり、その責めを問われて閉門の処罰を受けた。
 腕が見込まれて剣術指南役になったが、将軍秀忠にも手加減はせず、疎まれた。同じ剣術指南の柳生但馬守は要領がよく、どんどん出世して1万2500石の大名になったが、忠明は600石にとどまった。
 忠明は、家督を三男の忠常に譲ると自分は江戸を離れ、寺台の領地に移り住んで生涯を終えた。当時の旗本で、江戸から田舎にひっこむのは珍しかったそうだ。晩年の忠明は寺台の地をこよなく愛していたと伝わっている。旧友三吉のゆかりの地でもあり、人付き合いのわずらわしさからも解放されたのであろう。
 子の忠常も父と同じく剣を極める妥協のない生き方を選び、不器用な生き方をして、58歳で没した。そして、尊敬する父のそばに埋葬された。二人の墓は、成田高校の裏山にある。
 ―この項は『成田ゆかりの人物伝』(小川国彦著)を参照した―
(成田市玉造 田村 桓夫)