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香取海の名残(利根川)
【浅くなった香取海】
水運と水産物の恵みをもたらした香取海は、もとから浅い海だった。
奈良時代の713年に編纂された常陸の風土記にもその様子が書かれている。それによると、「流海(香取海)のところどころに州があって、そこには芦が生い茂り、人が住めるところではなかったが、たくさんの鹿が生息していた。その鹿は山にすむ鹿よりも味がよく、それを常陸と下総の両方の人々が狩りにくるのだが、いくら獲っても獲りつくせなかった」と書かれている。
その中にあって、長沼湾の入り口に位置する「田川島」は早くから人が住んでいたようだ。証拠のようなものはないが、成田市史は、律令時代の酢取(羽鳥)郷の範囲に田川を含めている。
香取海の州で人が住んでいたことを証明する最初の記録は、香取神宮文書である。1385年の南北朝期に「香取神宮所領のカナイトから、祭礼にあたり、鮭やマスなどが11の桶に入れて献上された」と記されている。
「カナイト」とは河内町の金江津のことで、土地の人は今でも「カナイツ」と訛ることがある。津を昔は「ト」と発音した。香取市「大戸」の古名は「大津」。こちらは、津の読み方が変わったので字が変わった。
室町時代になると、香取海は鬼怒川の運んでくる土砂でさらに浅くなった。対岸の龍ヶ崎はかつて港で栄えたが、港が浅くなって使えなくなったので、領主土岐(とき)氏は、領内のもう一つの港、江戸崎に港湾機能の中心を移した。
長沼湾も似たような状況だった。海運と陸運をつないで栄えた荒海や磯部も、このころになると交通の要衝とは言えず、東方の佐原や小見川にその主役を譲るようになる。
(成田市玉造 田村 桓夫)
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