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新利根川
【香取海と長沼の干拓】
江戸時代になると、幕府は諸藩に大規模な新田開発を推奨した。
戦のない時代に領地を自分で拡大できるのは干拓だけなので、香取海でも各藩がこぞって干拓に乗り出した。河内町にある「手栗」という集落は、幸手藩と栗本藩が干拓して領民を入植させたのでその名がついた。そして香取海は、霞ケ浦などのいくつかの湖を残して消滅していった。
1654年、江戸湾にそそいでいた利根川を香取海に流す工事が完成すると、大量の水と土砂が流れ込むようになり、洪水防止事業の必要性がたかまった。
1663年、幕府は、代官近山五郎右衛門と細田小兵衛に、新利根川の掘削と、更なる干拓事業を命じた。
新しい川を掘って利根川の水を全部そこへ流し、それまでの利根川の広い河川敷と、手賀沼、印旛沼、長沼の水を抜いて全部農地にするという壮大な計画で、それを実行するために、入り組んでいた干拓地の領地を全部幕府直轄に改めた。
その領地替えでは、工事期間中そこを管理した代官への引継ぎはほとんどなかったようで、さらに工事終了後の領地整理でも同様で、それまでの干拓の記録はほとんど残っていない。
1666年、突貫工事の末、新利根川は完成した。しかしその川は狭いうえに浅く、大雨が降るたびに氾濫した。そして、翌年の67年には利根川を元の川筋に戻さざるを得なかった。
印旛沼も、長沼も、当初の予定を縮小して周辺部の干拓にとどまった。それにしても、その干拓は想像を絶する規模だった。
栗原良輔著「利根川治水史」(昭和18年)には干拓した範囲が図示されており、それにより、この工事で長沼が海から湖に変わったことが分かる。
(成田市玉造 田村 桓夫)
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