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村人が集結した赤荻吉祥院跡(伝)
【赤荻の義民伝】
木内惣五郎が直訴をして処刑された義民伝は、今でも歌舞伎や芝居で「佐倉惣五郎」としてたびたび上演され、知らない人はいない。
成田では、その後も直訴事件がいくつも発生し、その都度犠牲者が出た。
中郷地区の赤荻村にも義民となった指導者がいた。
惣五郎の事件から130年たった1783年、その年は、天明の大飢饉に加え幕府の行った大規模な干拓工事で利根川の氾濫が頻発し、人々は年貢はおろか、自分達の食糧にも事欠くありさまだった。
そこで赤荻村の九兵衛は、佐倉藩内の印旛、埴生、千葉3郡の120か村に呼びかけて、翌年夏までの食糧の貸し出しと、未納の年貢の10か年年賦の要求を取りまとめ、佐倉藩に強訴した。これは、藩内の全村が加担した事件だった。
農民たちは、12月29日に佐倉城下へ押しかけたが、役人たちはそれを取り上げなかった。指導者の九兵衛は死罪を覚悟のうえであり、農民側も一歩も引かなかったが、結局弾圧され、1月6日ごろには力ずくで解散させられた。
これだけの騒ぎになったので、藩は面目に掛けて、また今後の見せしめのためにも、一揆の関係者を処罰することにした。
事件から1年4か月もたってから各村の役員372人を呼び出し、詮議のうえ、首謀者の九兵衛を永牢、その家族を村払いとした。
九兵衛は2年後に牢死し、村払いとなった妻子のその後の行方は不明である。
九兵衛はおそらく、惣五郎を尊敬し、手本としたのであろう。この時代の成田は、正義のためには自分の命をも犠牲にする、熱い情熱にあふれていた
―この項は『成田ゆかりの人物伝』(小川国彦著)を参照した―
(成田市玉造 田村 桓夫)
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