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10

10月

2010

歴史に埋もれた長沼文化

一白の屋敷があったあたり 一白の屋敷があったあたり

【一茶の親友 岩橋一白①】
 交通の不便な江戸時代、小林一茶が田川村の岩橋一白のもとを20回以上も訪れたが、そのことはあまり世間に知られていない。それよりも、成田を2度訪れたことのほうがよく知られている。
 現在の田川は茨城県河内町に属しているが、明治期までは、長沼と同じく千葉県印旛郡豊住村に属していた。当時の集落の位置はもっと成田寄りで、今は利根川の川底になっている。一白の家は、今そこにかかっている長豊橋の真ん中あたりにあった。明治から昭和にかけての利根川の大改修で田川の集落は川向うに大きく移動したので、明治32年金江津村に編入された。
 一白は、田川村の庄屋を務める豪農岩橋家の2代目で、名は五郎右衛門、俗名を佐輔といった。俳号は〝曇柳斉一白〟といい、一茶より2歳年上だった。一茶に俳諧の手引きをした〝今日庵森田安袋〟の門人であったことから一茶とは無二の親友となったのである。
 一茶は、やがて名を成し、各地を行脚することになるが、利根川沿いの村や町を訪ねるたびに、一白の家に何日か滞在するのが常であった。1791年から1817年の27年間に、記録に残るだけでも22回訪れ、56泊している。
 一茶が田川で詠んだ句は多いが、少し拾ってみると
 
僧正が野糞遊ばす日傘哉
どの村の持とも見へず蓮の花
秋の日やかへらぬ水をなく烏(からす)
 
一白の句も紹介すると

うかうかと祭りも過ごしかがし哉
立鴨の思い切りたる羽音かな
どの牛もよう寝て居るぞちるさくら   (つづく)
(成田市玉造 田村 桓夫)