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21

11月

2010

歴史に埋もれた長沼文化

神山魚貫生誕地に立つ碑 神山魚貫生誕地に立つ碑

【明治の国学は成田から①】○神山魚貫
 成田の一農民が独学で国学を極め、その門弟たちが明治維新後の「神国日本」の形成に影響を与えた。
 その農民の名は神山魚貫(なつら)。
 魚貫は1788(天明8)年飯ノ岡村(成田市飯岡)に生まれ、父が丈夫ではなかったので14歳のころから農耕に従事した。
 それでも読書が好きだったので、人に頼んで書物を買い求め、独学で勉強を始めた。その中で魚貫の心をとらえたのは和歌だった。
 ある夕方、畑仕事からの帰りに村人から「馬はどうした」と声をかけられた。歌づくりに夢中で馬の手綱が切れたのに気付かず、手綱だけを引いて歩いていたのだ。
 20歳になると彼の非凡さが認められ、村の名主に抜擢された。
 その後、江戸の文化人たちとも書簡の往復をするようになり、33歳のとき有名な国学者小山田与清の訪問を受け、この与清によって「飯岡に魚貫あり」と世に知られるようになった。
 40歳(50歳説もあり)のとき、家督を子に譲り、自分は歌詠みと和歌の研究に没頭するようになった
 魚貫は生涯2万首の歌を詠み、多くの歌集を出した。その評価は高く、幕末の名高い文化人、福井藩主松平春嶽からも絶賛された。
 魚貫は和歌の古典の研究から学問の幅を広げ、国学者としても一流となった。それを慕って武士から農民まで多くの門人が集まり、その門人たちが明治の国学思想に影響を及ぼしていくことになる。
 晩年は荒海村の眺めのよい場所に草庵を作り、そこで門人たちを教え、歌を詠んで過ごした。そして明治15年、95歳の生涯を閉じた。
―『成田ゆかりの人物伝』(小川国彦著)を参照―
 (成田市玉造 田村 桓夫)