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【明治の国学は成田から②】
○弟子たちの活躍
幕末に神山魚貫が成田に起こした国学は、門弟らによって中央に広められた。
門生名簿の最初に記された椿仲輔は、京都に出て門人200人を数える学者となったが、不慮の死を遂げた。勤皇を論じたため毒殺されたといわれている。
伊能頴則は、江戸に出て門弟をとり、和歌や国学を教えた。明治元年に神祇官に採用され、同2年には大学大助教に任ぜられた。
木村正辞は1827(文政10)年、今の成田市仲町に生まれた。子供のころから学問好きで、10歳を過ぎたころ神山魚貫を訪ね、和歌の教えを受けている。
正辞が成長すると両親は「そんなに本が好きなら」と本屋を出してやったが、正辞はお客が来ても本ばかり読んでいて、商売には身が入らなかった。
ところが、何が幸いするのか分からない。成田山に参拝にきた木村孝之助という人物の目にとまり、天保14年、16歳で江戸の木村家の養子となった。すると、居住地の近くに兄弟子に当たる伊能頴則がいたのでその門下生となり、そこで和歌と国学を本格的に学んだ。
正辞は20代半ばですでに学界でも注目されるようになり、1863(文久3)年に幕府和学講談所会頭助役となった。
維新の後も、明治2年に大学大助教、同4年には文部省大教授になった。師範制度の調査や憲法資料の編纂にあたり、さらに司法省にも関係して民法編纂員となり、明治34年、文学博士の称号が与えられた。
明治4年と同38年には、明治天皇に学問の講義(進講)をする栄誉に浴した。
正辞の門弟に佐々木信綱がおり、その後の国学の中心人物の一人となった。
―『成田ゆかりの人物伝』(小川国彦著)を参照―(成田市玉造 田村 桓夫)
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