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江戸時代の長沼(図説成田の歴史)
【長沼告訴①】
○江戸時代の長沼騒動
郷土史で争いごとを紹介するのは難しい。どちらの立場にたっても相手方から非難される。でもこの話題は避けて通れない。
長沼は水産資源の豊かな沼で、江戸時代初期には周囲16か村のうち長沼村にだけ入漁権が認められ、相応の年貢を納めていた。1か村にだけ認めた理由は不明だが、私は干拓事業における利害調整もあったかもしれないと想像する。この時期、幕府は香取海の大規模な干拓事業に着手するため、それまでの干拓地を直轄領に変えた。
1651年、佐倉の町人長兵衛が藩に申し出て、大金を払って3か年の漁業権を獲得した。沼は自分たちのものだと思っていた村人たちにとって、それは青天のへきれきだった。
それ以降は入札合戦となった。村民の多くは沼で生計を立てていたので、長沼村では無理を承知で高い額を提示し入札を勝ち抜いてきた。百年後の統計であるが、村民600人中400人が漁業に従事していた。魚の仲買人も8人いた。
1684年北羽鳥村が入札に加わり、長沼村が応札したにも関わらず幕府は北羽鳥村にも安い「猟銭(入漁料)」での入漁を認めた。申請者吉衛門の家が幕府の代官の宿になっていたので、当時の書物にも「北羽鳥村御ひいき」と記された。
その後長年にわたる村を挙げての返還運動が実を結び、1708年、漁業権は長沼村一村のものとされた。
ところがそうなると、同じように漁で生計を立てていた沿岸のいくつかの村は黙っていなかった。入会権を認めさせようとする告訴合戦や乱入事件に発展し、幕末に至るまでごたごたが絶えなかった。
そして、誰もが知る明治の長沼告訴へと続く。
(成田市玉造 田村 桓夫)
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