メニュー
|
諭吉に贈呈し返却された長沼城址
[長沼告訴②]
○明治の長沼告訴
明治5年、県は沼へ通じる排水路の川ざらいを長沼村へ命じた。それにはあまりにも多くの人夫を必要とし、とても1カ村では無理なので、長沼村はその普請を拒否した。すると、農業排水として利害を持つ周辺の15カ村が長沼村を無視してそれを実施した。
そのことで長沼村は沼の独占的な漁業権を失い、その権利を回復しようと代表を送って県への働きかけを行った。村民の多くは沼で生計を立てており、将来への生活不安は深刻だった。
県庁への請願のために千葉へ出た小川武平は、夜店で『学問ノスゝメ』を買った。それを読んで感動した武平は、東京に出て福沢諭吉に会い、諭吉も長沼村の権利回復運動に共鳴した。諭吉は請願書の案文を書いたり、県令(知事)あてに書簡を送ったり、武平に手紙で教示するなど、支援を惜しまなかった。
その甲斐もあって明治9年、沼を土地とみなした「借地権」を長沼村に認める決定を県から引き出し、さらに明治30年、内務大臣から「私有地として無償払い下げ」の許可を得た。湖沼は国の所有物と決まっているので〝私有地〟と呼んだのであろうか。
長沼地区の人たちはお礼として長沼城址の山を諭吉に贈呈したが、のちに返還され、今では城址公園となった。そして、長沼地区の人たちは今でも諭吉の子孫宅を毎年訪問して感謝の意を表している。成田市はこれを美談として広報誌に載せている。 視点を変えて、周辺地区の人たちはどう思っているのだろうか。沼が消滅してこだわりはなくなっているのかも知れないが、その人たちの声が聞こえてこないのが気になっている。
(成田市玉造 田村 桓夫)
|
|