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06

3月

2011

歴史に埋もれた長沼文化

十日川開削工事の様子(広報なりた2001年) 十日川開削工事の様子(広報なりた2001年)

【長沼干拓】
 昭和初期、長沼の農家110戸のうち約半分が耕作地5反歩以下の零細農家だった。
 ひょうたん型をした長沼の南側を「前沼」といったが、前沼は水深が浅かったので干拓することになった。
 『長沼干拓略史』によれば、周辺の住民は耕地整理組合を結成して昭和9年より大規模な干拓を行い、これによって、長沼の全農家に6反歩ずつの新しい農地が配分された。
 第2次大戦のさなかの昭和17年、国は「食糧増産」の号令のもとに、残された「後沼」も干拓するように地元に要請してきた。長沼地区は、造成された干拓地の一部を地区内の農民に配分することを条件に後沼を国へ売り渡し、翌年10月、農地開発営団が干拓事業に着手した。
 豊住村長は、茨城県内原農業訓練所に訓練中の満蒙開拓青少年義勇軍千人の派遣を掛け合い、地元民千人を招集した。その2千人の作業者で干拓に先立つ十日川開削工事は開始された。
 訓練生の宿舎は学校や寺院で、豊住村は男女を総動員して世話をした。
 炊事場と浴場は徹夜で完成させた。ふろ桶は10人用を10個並べた。100人ずつ10分で交代したので、千人の入浴には1時間40分かかった。ふろと炊事の水は、近隣の消防団を総動員して近所の井戸から送水した。炊事は、2斗炊きの窯30個を並べて行った。朝は6時のラッパで現地集合。夜は7時まで作業し、10時に消灯した。(参考文献・鈴木善之助著『利根の堤』)
 昭和28年に後沼の干拓は一応終了し、新しい農地は周辺の農民364戸と入植者7戸に配分された。これにより、長沼の農家は先の前沼の分も合わせて1町歩の新たな農地を得ることができた。
(成田市玉造 田村 桓夫)