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干拓された長沼
【おわりに】
明治初期、福沢諭吉の助言で長沼の人たちは『捕漁採藻之図』という絵図を作った。長沼での漁や採藻の方法を詳しく描いたもので、千葉の展覧会に出品するやそれが評判を呼び、千葉県はその絵図を何度も借り出して全国の展覧会に出品した。絵図はあたかも千葉県の広告塔のようであった。
そこには、小規模漁法で自然を大切にし、資源を再生しながら生活する様子が描かれていた。長沼の払い下げは、それが評価されてのことだとも言われている。
沼と調和して豊かで多様性に富み、本欄で「長沼文化」と呼んだ長沼地方の生活様式も、国策の干拓ですっかり失われた。干拓地は排水が悪くて農耕に適さず、沼からの現金収入はなくなって、長沼の人たちの生活は逆に苦しくなった。
しかし、成田空港の開港が決まると関連事業として排水施設に多額の資金が投入され、干拓地は美田に変わった。
戦後の大合併で豊住村が成田市に編入されると長沼の文化は求心力を失った。長沼の歴史の話のいくつかは『成田の歴史』(成田市発行)の中に散見されるが、取り上げられる機会も少なく、偉大な「長沼文化」はだんだん忘れ去られようとしている。
最初にもお断りしたが私は歴史の専門家ではない。これまでに書いたものは誰かが書いたものを書き直しただけである。引用した記事にはその旨注釈を付けるべきだが、私の場合は注釈だらけになって読みづらくなるので、重要な場合に限定した。
注釈がなかった部分にも小倉博先生、伊藤修一先生その他多くの方々の著書からの引用がある。この場をお借りして、お礼を申し上げます。
読者の皆様、長期のご愛読ありがとうございました。
(成田市玉造 田村 桓夫)
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