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祥鳳院
今回のルート
成田市役所12時33分(小泉経由大室循環ルート)乗車==祥鳳院13時3分下車(運賃200円)==徒歩(3分)==①祥鳳院==徒歩(25分)==②幡谷の名馬塚==徒歩(15分)==③市川団十郎先祖居住の碑==徒歩(35分)==④神山魚貫生誕の地==徒歩(10分)==久住駅前16時9分(赤荻経由大室循環ルート)乗車==市役所16時53分下車(運賃200円)
①祥鳳院(20分)
バスの窓から久住の山並みと畑地を堪能すること30分、右手が一面の水田になり、そのかなたに下総の新興住宅地が見えてきます。住宅地の隣には、戦国時代に活躍した大須賀氏の居城、助崎城の城郭跡を偲ぶ台地が遠望できます。
祥鳳院バス停で降り、左手の小高いところを見上げると堂々とした山門が見えます。山門前の右に「不許葷酒入山門」との文言が刻まれています。酒気を帯びた人は入ってはならぬというのです。
祥鳳院は平安時代、上総介平良将の開基と伝えられる古刹です。「鎌倉時代には、北条政子の腹帯が納められたと伝えられる由緒ある寺院です」と住職さんは語ります。また、江戸時代には幕府から朱印地10石を賜る朱印寺の格式をもっていたともいいます。
寺宝に千葉県指定文化財「大日本國総州二宮社檀(現在の船橋市三山町の式内社二宮神社)1303年」銘のある<梵鐘>があります。なぜ船橋の神社の梵鐘が成田の地にあるのか、郷土史家たちが興味深く研究しているところです。
②幡谷の名馬塚(20分)
バスの進行方向に従って急な坂道を20数分歩きます。坂道を上りきったところが名馬塚です。
名馬塚と呼ばれるのは、「香取神宮の祭神である経津主大神(ふつぬしのみこと)が東国平定のためこの地を通りました。そのとき、愛馬が長旅の疲れで死んでしまい、その愛馬をここに葬りました」という話が伝わっているからです。当時は供養したといいますが、現在そのいわれを知る人は少なく、道案内できる地元の人に巡り会うのは至難です。
名馬塚の頂上には3基の馬頭観音が建ち、下にも1基建っています。江戸時代まで、全国的に馬が移動や荷運びの手段として使われ、馬無しの生活は考えられなかったことから、馬は大切にされていました。馬頭観音は動物供養塔と推察されます。千葉県内には、馬に跨った馬乗り観音像まで見られるといいますが、幡谷の4基はいずれも観音像を彫ったものではありません。素朴に「馬頭観世音」の文字だけが彫られています。
③市川団十郎先祖居住の地(20分)
県道を久住駅の方向に1㎞ほど歩くと、「市川団十郎先祖居住の地0.3㎞」の道標が見えてきます。案内に従い、農道に入り進むと、突き当たる手前の右奥に、「市川団十郎先祖居住の地」と刻んだ石碑を見ることができます。かつては、隣地に、初代団十郎の坐像が線刻され、分骨が埋葬されているといわれた石碑もありましたが、今は見ることができません。 市川家初代の父・幡谷重蔵は久住村幡谷の出身でした。初代団十郎はなかなか子宝に恵まれなかったので、成田山に子授けの祈願をしたところ、2代目団十郎を授かることができました。この待ち望んだ男子誕生の喜びが、市川家と成田山の強い絆のはじまりになりました。初代は仏恩に報いるため、歌舞伎で不動明王に扮したり、息子の九蔵に通力坊の役をつとめさせるなど、父子共演で成田山の名を世間に広げていきました。
〈市川団十郎〉
(『図説 成田の歴史』
成田市発行より抜粋)
初代以後、2代、3代と代を重ねるごとに団十郎と成田の関係はより親密さを増すが、なかでも顕著なのは7代目団十郎であった。7代目は江戸まで出られない村人のために成田村で奉納芝居を行ったり、大金1000両をもって成田山に額堂を寄進したことなどで注目される。額堂には当時の著名な画家の絵馬が掲げられたために、絵馬を見る村人の美術的な教養を高めたといえよう。この7代目が天保12年に豪奢な生活が禁令にふれて江戸を追放されているが、その身柄を預かったのが成田村の人々である。彼は成田山の末寺延命院で1年間ほど暮らし、この間村人と句会を催したり、子どもたちに芝居を教えたりして、文化の向上に尽くしたのであった。
④神山魚貫誕生の地(20分)
めざましい発展を続ける久住の新興住宅地を抜け、成田消防署飯岡分署前を進むと、道路右の3軒目に神山名の家があります。その庭内に「魚貫翁遺愛の松」の碑があります。私有地ですので見学するには家人に訪問の挨拶が必要です。
神山魚貫は独学で「古今和歌集」などを学び、歌道の神髄をきわめました。代表作歌集に「苔清水」(原本成田市立図書館所蔵、版木成田山霊光館所蔵)があります。「としたかくなりにけるかなこの松の二葉のむかしいく代なるらむ」の歌碑も庭に建っています。
〈神山魚貫〉
(『成田ゆかりの人物伝』 小川国彦著より抜粋)
神山魚貫は天明8年(1788)9月9日、下総国埴生郡飯ノ岡村(現在の成田市飯岡)に父豊杵(貞吉、通称三郎左衛門)、母市(荒海、糸川平右衛門の娘)の長男として生まれた。
魚貫は幼少の頃は周助といったが、長じて後、家の三郎左衛門を襲名し、魚貫を号とした。魚貫という号は、私淑していた佐原の歌人、伊能魚彦より上に貫(ぬき)んでたいという望みを託した名前であった。あるいは夢はもっと大きく魚彦の「魚」と『古今和歌集』の撰者紀貫之の「貫」をいただいて、一字ずつとってつけられた名前だという説もある。家の前に大きな松があったので松廼舎(まつのや)とも称し、晩年には隣村荒海村に草庵を結び、無境庵と称した。
幡谷の名馬塚
神山魚貫誕生の地
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