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三里塚の塚
【三里塚の由来①】
○多古起点説
三里塚の地名はそこにある塚からきていますが、どこを起点にして3里なのかについては諸説があります。
一番有名なのが、多古の日本寺からというもので、寺のパンフレットによれば「江戸時代、水戸黄門がそこに集う学僧のために江戸まで1里ごとに塚を建てたと伝承されている」とあります。でも、黄門さまが副将軍だったのはテレビドラマの中だけの話で、実際にはそれをつくる権限も財力もなかったはずです。
また、三里塚の地名は江戸時代の前からあったとする説もあります。
そこで紹介したいのは、成田市在住の歴史家勝又清和氏の千田の庄起点説です。
氏は千葉氏の歴史を研究されていて自身もその末裔だそうですが、1300年代のある時期に千葉一族千田氏の本拠城が多古にあり、勢力を広げるなかで一里塚(1里ごとの塚)を築いたという説を唱えています。
氏は現地調査を重ね、本拠城が日本寺のある多古中村にあったことを突き止めました。そこから3里の位置に三里塚を、4里の位置に四里塚にあたる法華塚を建てたというのです。4という数字は縁起が悪いので縁起を直すために法華塚にしたといわれています。
千田氏の先祖宗胤は千葉氏の宗家を継ぐはずだったのですが、元寇の役の混乱で弟が家督を取り、自分は九州千葉氏になりました。そしてその子胤貞が下総領を取り戻そうと千田の庄に入り、そこから勢力を広げていったのだそうです。
千田氏は高僧日祐上人(のちの中山法華経寺三世貫首)と手を結び、勢力範囲の真言宗の寺をことごとく日蓮宗に改宗させて信仰を領内支配に利用したので、法華塚を建てたという説には説得力があります。
(成田市玉造 田村 桓夫)
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