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馬囲いの土手『図説成田の歴史』より
[義民治右衛門①]
「これ治右衛門、その方が申し出た『牧の土手の崩れ』とはどこのことじゃ」
時は、万治2年(1659)2月。場所は、寒風の吹きすさむ取香牧。佐倉藩の検分役人の前に、直訴の罪により縄で括られた治右衛門が引き出され、現地裁判が始まりました。
「お役人様、私が村を出るときにはこの土手が大きく崩れておりました。ところが、今見るとすっかり修復されています」
すると、参考人として呼ばれた牧場を管理する役人が反論しました。
「何のことだ。この土手はいつも手入れが行き届いているので崩れたことなどないぞ。のう、村の者」
村人たちは苦渋に満ちた顔で震えながらいいました。
「はい、牧場役人様のいう通りでございます」
誰に聞いても答えは同じでした。
断は下りました。
「掟を破る直訴のうえにお上を偽る不届き者め。妻子ともに打ち首にいたす」。
治右衛門親子は、自分たちの命と引き換えに助けようとした村人たちから裏切られ、悔し涙のうちに裁判は終わりました。
三里塚の取香牧は幕府の牧場で、たくさんの野馬が放牧されており、佐倉藩に管理が任されていました。
その牧で馬を囲い込む土手が崩れ、馬が村に出て畑の作物を食い荒らし、吉倉の村では大きな被害が続いて村人たちの生活が困窮しました。幕府の所有する牧場なので勝手に土手の修復などできません。
名主の甲田治右衛門が土手の修復を何度願い出ても牧場の役人は取りあってなどくれませんでした。
これ以上見過ごすことはできず、治右衛門は死罪を覚悟の上で佐倉藩主へ直訴したのでした。 (つづく)
(成田市玉造 田村 桓夫)
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