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02

10月

2011

エリア再発見 驚きの三里塚

治右衛門の墓(多門院) 治右衛門の墓(多門院)

[義民治右衛門②]
 裁判の日に土手が崩れていなかったのは、治右衛門が直訴したことを知った牧場役人が村人を総動員して検分の日までに土手をすっかり修復したからでした。荒らされた畑には草を植えて荒れ地のように見せかけ、村人には厳しく口止めをしました。
 村人たちは、自分たちのために命を投げ出した治右衛門を裏切るように牧場役人から強要されたのでした。後難を恐れてそれに従った村人たちは、処刑される治右衛門親子に「すまぬ。すまぬ」と心の中で泣きながら詫びました。
 そのような不条理がいつまでもまかり通るわけがありません。やがて事実は明らかになりましたが、処刑はすでに執行されていました。佐倉藩は取り返しのつかないことをしたと後悔しましたが後の祭りでした。
 そして牧場役人を処分し、かつて治右衛門が主張した通りに被害に見合った年貢を減免しました。
 それ以後は土手が崩れたらすぐに修復し、農作物への被害は検分のうえ年貢と相殺したそうです。

 明治31年、道路工事で塚のそばから数体の白骨が出土し、それが治右衛門親子のものとわかったので菩提寺の多門院に改葬されました。
 平成14年7月、吉倉地区の人たちによって、治右衛門の義民伝を後世に伝えるための記念碑が墓の隣に建てられました。

 成田には誰もが知る木内惣五郎(芝居などでは佐倉宗五郎)の義民伝があります。この事件は惣五郎処刑の5年後に起きました。治右衛門も惣五郎を尊敬し、手本としたのでしょう。(この項は小倉博著『成田の歴史散歩』を参照しました)。
(成田市玉造 田村 桓夫)

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