メニュー
|
江戸時代の道しるべ(三里塚十字路)
[三里塚集落の誕生]
江戸時代、三里塚あたりには民家が1軒もなかったといわれています。幕府の取香牧がおかれ、広大な原野にたくさんの馬が放牧されたためです。
それでも交通の要衝でした。三里塚の十字路には江戸時代の道しるべが立っていて、正面に「なりた・なめ川」、右側に「ねこな・さくら・江戸」、左側に「此方加茂・たこ・てうし」、裏面に「しバ山・九十九り」と刻まれています。このことは、牧場内の街道を旅人が往来していたことを示しています。
無人の地区であっても、近隣の村の老人や病身で農業ができない人たちが三里塚の十字路によしずで囲った簡単な店を出し、旅人相手に茶菓子などの商いをしていたようです。
幕末から明治にかけて、三里塚でおいはぎや殺人事件が発生しました。
近隣の人たちは、人が住むようになれば治安も良くなると思って明治7年5反歩の土地の借用を申請し、翌年許可されて、三里塚と大清水に人を定住させ商売を始めさせました。
明治8年、取香牧が「取香種畜場」という西洋式牧場に変身すると人の往来も活発になり、三里塚の居住者は明治8年には5軒だけだったのが、2年後の10年には34軒にも増えました。職種は、旅籠屋(旅館)・そば屋・酒屋・豆腐屋・駄菓子屋などでした。
種畜場に獣医科が設置されると全国から実習生が集まり、種畜場の経営が拡大されるにつれ、農具の製作などそれに関わる新しい産業が興り、また、種畜場を見習って、新しく民間の牧場ができるようになりました。
このようにして三里塚の集落は大きくなっていきました。(小倉博著『成田の史跡散歩』を参照しました)
(成田市玉造 田村 桓夫)
|
|